田辺の街では、交易の拠点が東から西の由良河河口にと移り、由良の港は北前船の交易で大変栄え、田辺藩の街の中心部、高野川周辺には次々と商人たちが大きな倉庫を構えた倉庫群が今でも残ります。関が原の戦いでの功績を認められた細川氏は豊前へと移管となり、京極氏が田辺の町づくりを引き継ぎました。また京極氏は田辺の町民、職人6,300人を引き連れて、石田光成勢との戦いで焼き払われた、宮津の町をも再興した後、豊岡へ移り(京極氏家老の娘が大石内蔵助の妻「りく」となります)姻戚関係にある京都守護代牧野氏が10代に渡り田辺藩を治めました。こうして明治を迎えるまでのしばしの間、舞鶴は日本の他の地域同様に平和な町人の時代を迎えます。
芸屋台見送(みおくり)大正時代の撮影
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