けやきの会

城下町舞鶴


近世の舞鶴は細川幽斉から始まりました
22年6月18日
  鉄と塩の交易時代から平安時代に入り、西大寺や醍醐寺の豊かな荘園の地となり、平安中期には美福門院の金剛院中興の折には造営奉行であった平将門(清盛の父)杉まで残る舞鶴の記録も、何故か平家没落に伴いすっかり記録が抜け落ちます。その後、丹後水軍の拠点となり小浜から朝倉氏が大軍を持って攻め入ってもたった三日で追い返された、との記録がありますが、その水軍と最初に手を結んだ細川藤孝によって、戦国時代の末期の天正八年(1580)、丹後国は細川藤孝、忠興親子の領国となった、との記録へと移ります。細川氏は、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築きました。これ以後、田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約二百九十年間、領内統治の中心的存在でした。明治六年(1873)、田辺城は廃城とされ、本丸付近は現在、舞鶴公園となっています。また、「舞鶴」の地名は、田辺城の別称(舞鶴城)に由来しています。細川氏については「古今伝授」が有名です。
        田辺城

町人の時代の舞鶴
22年8月26日
  田辺の街では、交易の拠点が東から西の由良河河口にと移り、由良の港は北前船の交易で大変栄え、田辺藩の街の中心部、高野川周辺には次々と商人たちが大きな倉庫を構えた倉庫群が今でも残ります。関が原の戦いでの功績を認められた細川氏は豊前へと移管となり、京極氏が田辺の町づくりを引き継ぎました。また京極氏は田辺の町民、職人6,300人を引き連れて、石田光成勢との戦いで焼き払われた、宮津の町をも再興した後、豊岡へ移り(京極氏家老の娘が大石内蔵助の妻「りく」となります)姻戚関係にある京都守護代牧野氏が10代に渡り田辺藩を治めました。こうして明治を迎えるまでのしばしの間、舞鶴は日本の他の地域同様に平和な町人の時代を迎えます。
  芸屋台見送(みおくり)大正時代の撮影